武田信玄の副収入のススメ
戦国時代最強の武田騎馬軍団・・・ その最強家臣団を支えたのが金山採掘による甲州金・・・ 現代によみがえる武田信玄の戦略・・・ まずはコツコツとお小遣い稼ぎから!!!
桜の名所:高遠城
takatojyo.jpg


桜の名所:高遠城

《トモ蔵》
勘助殿、今回は高遠城についてでござる。
勘助殿が改築に関与した高遠城は、現在は桜の名所として訪れる者を眼でも楽しませる城跡となっておりまする。

《山本勘助》
おぉ!!!
拙者が築城の知識を実践で活用して改修したあの『高遠城』となぁ・・・早よう聞かせて頂けぬかな。

《トモ蔵》
では、早速に・・・


桜の名所:高遠城
高遠城は元来 諏訪氏の一族である高遠氏が居城としていたが、武田信玄の信濃進軍の際、高遠城を取り囲み、高遠頼継は自ら城を開いて降伏した。
武田信玄はこの高遠城を更なる信濃進出の拠点とするため、天文16年(1547年)に山本勘助、秋山信友に命じて新しい技法を駆使した大規模な改築を行ない、秋山信友らを城主とした。
永禄5年(1562年)には武田勝頼が城主となったが、元亀元年(1570年)武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐に呼び寄せて後は、弟である信廉を城主とした。
その後も仁科盛信が高遠城主となるが、信玄亡き後の武田氏を一気加勢に攻めたてる織田信長は、長男である信忠を大将に約5万の大軍で高遠城に迫らせた。
高遠城に籠もる城兵の数はたったの3千余り。
織田信忠の降伏勧告にも屈せず、仁科盛信を先頭に奮戦するも凄惨な戦いのすえ家臣全員が玉砕して落城した。
武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅びたのは、この合戦の9日後のことである。

そんな高遠城も現在では高遠城址公園として整備され、『桜の名所』として多くの訪問者の眼を楽しませてくれる。
今でも各郭跡とそれらを取り囲む深い空堀などが残り、戦国時代に築かれた城跡の面影をそのままに留めているため、国の史跡に指定されている。
高遠城は月誉山西麓を利用した丘陵上に築かれ、本丸を中心に二の丸・南郭・法憧院(ほうどういん)郭・笹郭などを段階的に配したもので、各郭とも土塁、空堀をめぐらし、要所は石塁をもって防備している。
二の丸跡から本丸跡に至る桜雲橋と問屋門は高遠城跡のシンボル的存在である。
やはり4月の中ごろが一番の見頃であり多くの見物客で賑わうが、桜の季節でない時でも戦国時代の史跡としては見物価値は十分にあるのでオススメのスポットである。

以上、いかがでござろうか?

《山本勘助》
拙者が携わった『高遠城』に今も尚、多くの人々が訪れているとはこの上なき幸せに感じ入りまする。
今後もかような史跡を是非とも後世にも残していってもらいたいものである。
トモ蔵殿、ご報告に感謝します。次なるご報告をお待ちしております。


FC2 Blog Ranking ←←← どうかヨロシクです!!

テーマ:日記 - ジャンル:アフィリエイト

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://tomobg5.blog68.fc2.com/tb.php/18-b512cb2b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック