重荷を背負いて
遠き道を行くが如し
徳川家康の名言としてこの言葉も有名である。
人生とは決して楽なものであるはずもなく、辛さや困難とは表裏一体で常に伴いながら一歩一歩前に進んでいくものである。
ましてやその道のりも決して短いものではなく、坂道を登ったり下ったり、時には平地を進んだりというものである。
不幸を不幸と嘆くだけでは何も進展せず、心の準備があれば自分自身の中で自己完結することができ、納得がゆくものでもある。
せわしく生き急ぐ現代人が忘れているもの・・・
家康のこの言葉を見習いたい。
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強い者が勝つ
辛抱の強い者が
まさに
徳川家康の、徳川家康による、徳川家康の為の言葉であろう。
辛抱・・・
我慢・・・
忍耐・・・
何ものにも代えがたいこの耐久性こそが家康の真骨頂であり、
結局は天下を手中におさめ、磐石の江戸幕府への布石を残した
男の言葉である。
何もここまで辛抱しなくても・・・
って思ってしまう自分はまだまだ修行が足りないのであろう。
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この言葉は織田信長から数々の無理難題を臨機応変の機転を利かせて受け流してきた秀吉が言ったからこそ深い意味がある。
もし他の者が残した言葉であればそれほど印象には残らなかったであろう。
あるとき信長は家臣の者に清洲城の修築工事を一週間の期限で仕上げろと命じる。
誰もがこの無理難題に躊躇し手を挙げて進み出る者が無いなか、秀吉は『自分が直してみせます。』と申し出た。
まず秀吉は修理職人を10チームに分けた。
100間(約180m)の城壁修理にあたり、10間づつをそれぞれに担当させ区画を分けた。
そこで『城壁修理を一番早く仕上げた組に褒美を出す』と約束する。
修理職人も目標が100間から10間に代わったということで、何とか期間内に仕事を完成させ褒美を貰おうと日夜休みもせずに修復作業にあたる。
そして到底無理であろうと思われた一週間という期限で城壁の修復を完成させてしまう。
主人の無理難題に対して豊富なアイデアと持ち前の行動力で解決し他を圧倒する・・・
まさに秀吉だからこそできる業である。
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この言葉は豊臣秀吉は織田信長を評した言葉である。
信長の忠実な部下として長きに渡り仕え、ある意味一番コキ使われたであろう秀吉の言葉・ホンネとして意味深いし面白い。
確かに勇将ではある。
だが良将ではない。
信長の下には秀吉を初めとして多くの優秀な部下がいる。
その諸将を動かしたものは信長の絶対的な『カリスマ性』である。
言い換えればそれは一種の『恐怖』である。
何か気に入られないことや失敗をすると取り返しのつかない事になる。
次から次へと功をあげなければ今の地位さえままならない。
人を恐怖でコントロールする・・・これが信長式の人材活用術であろう。
しかし人を動かす原動力は恐怖だけではない。
『義理・人情・仁義』といった部分でも人は意気に感じて動くものである。
信長は人情で人を動かすといった能力には大々的に欠落している。
その部分の欠落・・・いわゆる『思いやり』のなさで人から反感をかうこともしばしばであった。
本能寺の変で明智光秀に挙兵をさせたもの・・・
それはまさに信長の光秀に対する『思いやり』のなさであろう。
人に凄いと思わせることはできても
本当の意味で愛されない・・・
ゆえに織田信長は『良将』ではないと秀吉も評したのであろう。
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我が身の善悪を聞き 万事に心を付ける
これこそが 将たる者 第一の要務である
とかく身分が上がっていくにつれ自分の過去を忘れてしまいがちである。
自分が身分の低いときに上司・上官に感じた不満やうっ憤・・・
偉くなったら自分と同じ想いをする人間をつくらないように・・・と誓ったとしても、自分の身分が上がるにつれ今まで見えていたものが見えなくなってしまう・・・
悲しいかな、多かれ少なかれ『人』とはそういう習性をもった生き物であることには間違いない。
で、あるからこそ自分を客観的に見てくれる者がいるということは幸福なことである。
あながち周りには『物言う者』は敬遠され『イエスマン』しかいない・・・なんてことはよくある話で、これでは本当の意味での向上は望めない。
せめて自分の部下達にはこういう風に接したいのであるが・・・
なかなか難儀である。
秀吉のこの言葉 忘れるべらず であります。
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浪速のことは 夢のまた夢
これは豊臣秀吉の辞世の句とされている。
露のようにこの世に生まれ落ちて、露のようにはかなく消えていってしまうこの身であること。
栄光の日々は、夢の中の夢のようにはかないものである。
そういった思いが読み取れる。
一介の足軽より出世街道を関白という地位までに登りつめた秀吉であるが、死を目前にして己の人生を振り返ったときに、はかなさを感じるというところがなんとなくではあるが共感してしまう。
地位や名誉だけでは満たされない何かを感じたのではなかろうか?
いずれにせよ未曾有のシンデレレラボーイが何を想い、何を望み、何を成し得え、何を残したのか・・・。
秀吉の死により歴史が急展開することは史実の通りである。
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本当の知恵ではない
豊臣秀吉のこの言葉も好きな言葉のひとつである。
本当の知恵とはその必要性に迫られひっぱくした状況でしぼってしぼってやっとひねり出されるものである。
安易に他人に頼ってでたアイデアは本当のアイデアとは呼べず、オリジナリティーに欠けるものである。
この『知恵』の部分を『信念』に換えてみても同じことが言える。
自分自身の信ずるべき『信念』は決して他人からどうのこうの言われたことで揺るぐものではなく、それで揺らいでしまうものであれば本当の『信念』ではない。
早く自分の『信念』とも言えるべき境地を見出したいものである。
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人をば使わず
その業を使うなり
この言葉からは武田信玄がその人材を登用・活用するのに何を重視したかが伺い知ることができる。
人材=人財であり、それぞれの持てる個性を見極め、その力量が充分に発揮できる場所を与える。
その場を与えられた武将は最大限にその期待を裏切るまい、更に期待以上の働きを見てもらいたいと力量以上の働きを見せる好循環。
まさに『適材適所』の急所をついている人材の活用方法こそが優秀な家臣団を形成した武田家の背景にはあるのではなかろうか。
トンチンカンな人事異動
⇒活躍する場を与えられない
⇒本来の能力が生かされない
⇒次第にやる気を無くしていく
⇒周りにも悪影響が及ばされる
なんて悪循環をある会社では見かけるのだが・・・
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与えられた仕事だけをやるのは 雑兵だ
織田信長のこの言葉も現代に十分通用するであろう。
言われたことを忠実に言われた通りに実行することも重要ではある。
言われたことさえできないよりは余程良い。
ただそれだけではもうひとつ上のステージへと登ることができない。
自分で自分の限界を『ここまで』と決めてしまい、それ以上を目指さなくなってしまう。
自分でその限界の壁をぶち破り次なるステップへと進むためには、ただ指示を待つだけではなく、自分自身で創意工夫・試行錯誤していくしかない。
それでこそ人は成長していく。
成長するということを線グラフに例えると、放物線のようになだらかに上がる線ではなく、階段を登るように段々な線になるのだという。
階段の平らな部分を進んでいるときは成長の実感はないのだが、あるとき『ドーン』と壁にぶち当たりそれを乗り越えることで急激にステップアップして・・・また平らな線が続き・・・の繰り返しである。
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この言葉で織田信長は『いざ合戦となれば敵の弱い部分に攻撃を集中して勝機を見出す』ことを指示している。
もてる戦力を最大限に発揮・活用するためには一点に集中的に力を注ぎ込み、余計なことは後回しにすることが肝要である。
組織を生かすための『一点集中主義』。
現在の学校教育などは如何であろうか?
皆が平等に、そしてみんな仲良くというのは良いとは思うのだが・・・
誰もが落ちこぼれないようにマイナス部分を補填しようとする。
『その人の個性的で得意な分野をトコトン伸ばしてやる』ということも本当に大切なことである。
プラス部分を更に極めて行くような考え方。
信長のこの言葉を見聞きする度、そう実感するのだが・・・
全てを学校教育のせいにするのは卑怯であるから、せめて自分の子供たちにはこの言葉を念頭に接していきたい・・・ (かなぁ???)
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織田信長の居城・安土城は簡単に落城しないように堅固な設計で計算し尽されて建築された。
しかし信長は諸将に対して『決して城だけに頼るでない』という想いを伝えるためにこの言葉に残している。
いかに難攻不落の城であってもそれを守る『人』が慢心してそれだけに頼れば必ずや隙が生じて落城してしまう。
時代は過ぎて第二次世界大戦。
日本が誇る巨大戦艦『大和』も不沈艦と信じられていたが遂には海中深くに眠ってしまう。
世の中に『絶対』という言葉は、『絶対』にありえない???
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下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり
一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか
正直言うとこれは織田信長が残した名言でなく、幸若舞(こうわかまい)という舞楽の『敦盛』(あつもり)という舞の中に出てくる一節であり、特に信長が気に入っていた部分である。
今川義元との桶狭間合戦の際に舞い踊った後に出撃する・・・といったシーンがドラマなどでもよく出てきて有名になっている。
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり・・・
これは人としての寿命がたった五十年しかないという意味でなく下天(天界)では一日が人間世界の五十年に相当してあっという間であるという意味。
だから生を受け滅びるまでは精一杯生きていこうというポジティブな言葉である。
信長のように精一杯生きてみたいものである。
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戦いに臨むにあたり、常に後生のことを考え生き延びようと考える者の目には例え目前の敵が僅かであっても思いも寄らぬ大軍に思える。
楽天的に前向きに生きるのか・・・
悲観的にうつむきながら生きるのか・・・
織田信長の人生の前半期は桶狭間の戦いに代表される通り、決して軍勢的にも圧倒的多数をもっての戦いというのは皆無であり、少数精鋭で自軍を上回る軍勢と戦ってきた。
少数で大軍に立ち向かうためには士気を鼓舞する必要があり、この言葉で諸将を叱咤激励したのであろう。
戦国の戦場を現代に置き換えたとしても充分通用するのでは。
例えば携帯電話業界1位のNTTドコモに対抗し、矢継ぎ早に常に新しい技術を先行していくauの戦略など・・・
ちょっと注目である。
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あるとき小田原城主の北条氏康は嫡男の氏政とともに食事していたときに涙をこぼしながらこの言葉を発した。
氏政は飯に汁をかけて食べていたのであるが、一度ならず二度に渡り汁を注ぎ足している様を氏康は見逃さなかった。
毎日する食事のことでありながら、飯に汁をかけるのに一度で適量を計ることさえ儘ならず、もう一度かけてやっと適量にするとはなんと愚かなことであろうか。
日々の些細な見積もりができぬ者に家臣の心中を推し量ることなど決して望めない。
そのような君主に家臣団をまとめ上げることなど遠く及ばず北条家は滅びてしまうであろうことを嘆いている。
このような子に育てた父が不幸なのか・・・
この時点で気づいた父は幸福なのか・・・
このような父に育てられた息子が不幸なのか・・・
この時点で諭された息子は改心するのであろうか・・・
実に興味深い事例であり、その結末は歴史が物語るのであろうか?
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甲州名物『ほうとう』
『ほうとう』とは山梨県の全域で作られる郷土料理のひとつ。
やや幅広のうどんを味噌仕立てで煮込んだ麺料理の一種。
古くは『武田信玄の陣中食』として広まったとの説がある。
麺と味噌を携行して転戦先で野菜などを調達して煮込んで陣中で食したであろうと想像される。
元来甲斐の国では稲作に不向きな土地柄もあり、主食・保存食として普及し全域で食されるようになった。
主にカボチャをメインにニンジン、ジャガイモ、シイタケなどの野菜が具材として使用される。
家庭料理であるためそれぞれの家庭で味付けや使用する具材も異なることが特徴的である。
通常のうどんのようにサラサラの汁で仕上げる家庭もあれば、汁がほとんどなくなるまで煮込む家庭もあり、その好みも多種多様である。
ざるに茹で上げた麺を温かい汁でつけ麺のようにして食す『おざら』と呼ばれる食し方もある。
山梨県内のいたるところの和風の料理屋で提供されているが、特に有名なのは『小作』と『ほうとう不動』であろう。
好みは分かれるところだが、自分好みの『ほうとう』探しもこれまた楽しいことである。
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上杉謙信の居城、春日山城の壁に以下の文字が残された。
『運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。必ず一定と思うべし』
毘沙門天の生まれ変わりと自称した謙信であるが、戦いに対する心構えの根底にあるこの『無欲』の境地こそカリスマ的な統率力の骨格部分を支えたのではなかろうか?
いかにも謙信らしい言葉と言えよう。
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この言葉は慣用句としても有名な言葉である。
上杉謙信は幾度となく戦いを繰り返してきた宿敵・武田信玄に次のような書状を送ったと伝えられている。
『聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと、これきわめて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓矢にありて米塩に非ず、今より以後塩を我が国にとれ、多寡ただ命のままなり。』
甲斐・相模・駿河の三国同盟が破棄されてより、太平洋側からの塩の道を北条氏に断たれて甲斐国内では塩を確保するすべを絶たれて苦しんでいた。
上杉謙信はこの事態を聞き及ぶと『戦は戦場にて雌雄を決するもの』として甲斐の人々に日本海側から援助の手を差し伸べたのである。
幾度となく決戦に臨んだ両雄は、度重なる戦の中で互いに認め合う一面も有していたのであろう。
武田信玄は死を前にして息子・武田勝頼に『自分の亡き後は越後の上杉謙信を頼って手を組むように』と遺言を残している。
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以下は上杉謙信が残した家訓《全16箇条》である。
■上杉家、家訓16か条
心に物なき時は、心広く体泰なり
心に我侭なき時は、愛敬失はず
心に慾なき時は、義理を行ふ
心に私なき時は、疑ふことなし
心に驕なき時は、人を敬ふ
心に誤なき時は、人を畏れず
心に邪見なき時は、人を育つる
心に貪なき時は、人に諂ふことなし
心に怒なき時は、言葉和らかなり
心に堪忍ある時は、事を調ふ
心に曇なき時は、心静なり
心に勇ある時は、悔むことなし
心賤しからざる時は、願い好まず
心に孝行ある時は、忠節厚し
心に自慢なき時は、人の善を知り
心に迷なき時は、人を咎めず
全ての家訓が『心』から始まり心理の細部に至るまでに言及しいてるところは、いかにも仏門に身を置いた上杉謙信らしいところである。
謙信の謙信たる一面がこの家訓から読み取れるのが面白い。
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成る事を成らぬと捨つる
人のはかなさ
武田信玄は武勇に秀でていたばかりでなく、歌を詠むことにより諸将への教育としてもたくみに利用している。
物事の成否を決定するのには、その決断力と実行力によって成る。
はじめから諦めてしまっていては成功するには遠く及ばない。
成功を信じて信念を貫けずに途中で諦めてしまうことを嘆いてる。
この言葉を聞いた武将はそうなるまいとモチベーションを維持することができる。
巧みに諸将の意識を良い方向へ導く名言のひとつである。
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5分をもって上となし
7分を中となし
10分をもって下となす
武田信玄は戦いにおいて以下の通りの考え方をもとに戦略を立てていたという。
■戦いに際し5分勝ちは『励』を生じるため次なる戦いへの緊張感を維持できるため最良とする。
■7分勝ちは『怠』を生じるため次の戦いへ向けて不安要因となるため中とする。
■10分勝ちは『驕』を生じるため次の戦いに敗れる原因になるので下とする。
だからいたずらに合戦に勝利することのみを良しとしなかった。
勝負は局地戦での勝ち負けにこだわるのではなく、戦略的に政治面をも含めて勝利することに意義があるという教訓を諸将に説いている。
徹底的に合戦後の動向を思慮した合理主義によって軍を動かすその裁量はやはり他の戦国大名に抜きん出た力を持っていたと言える。
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人は城、人は石垣、人は堀。
情けは味方、仇は敵なり。
一般的に戦国大名の多くは堅固な城を築き守りの要とした。
しかし武田信玄は
『どれだけ城を堅固にしても人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる。』を信念としてこの言葉を残した。
その言葉の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐の国内に城を築くことなく、平館ともいえる簡素な躑躅ヶ崎館に居住した。
それに替えても尚余りある優秀な家臣団の形成に傾注したがために戦国の世に名を馳せることができた。
現代に於いてもきらびやかなハード面はある程度の資金を積めば造築することは可能であるが、それを運営するソフト面の充実は一朝一夕には叶わないのは同じことである。
とは言うもののそれを実現することのなんと難しいことか・・・
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出自は武田信玄の傅役を務めた金丸虎義の二男である。
特出する武功としては元亀3年の三方ヶ原の合戦において徳川勢の中でも名を知られた剛将・鳥居信之と激しい一騎討ちを演じており、結果その首級をあげている。
信玄が上洛途上の駒場で亡くなったおりに殉死を願い出た。
しかし重臣の高坂昌信に説得され武田勝頼に忠臣を誓ったという。
長篠の戦いでは、敵の三重柵の二重まで突破したところで鉄砲隊の一斉集中射撃を受け落命した。
剛将として知られる反面、竜朱印奏者でもあり行政官としての活躍も目覚しいものがある。
武田家滅亡の天目山の戦い『片手千人斬り』で名を残した土屋昌恒の実兄にあたる。
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三分一湧水
《トモ蔵》
勘助殿、今回ご紹介するのは三分一湧水でござる。
■三分一湧水
三分一湧水とは山梨県の北杜市にある湧水で、八ヶ岳の雪解け水が湧き出している泉のことである。
かつてこの湧水は農業用水として周辺の村落で利用していたが、その湧いた水の分配については各村落で争いの種となっていた。
そこで武田信玄はこの湧出口に分水枡を造り、そこに三角石柱を立てて、水の流れを三等分した。
以後平等に農業用水を確保できるようになった三つの村落での争いは起こらなかった。
以上いかがでござろう?
《山本勘助》
なるほど、お館様の内政の形跡がここにも色濃く残っているのですなぁ。
それにしてもその思慮の深さには今更ながら頭が下がる想いでござる。
またの報告を期待しておりまする。
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行政官僚として直轄領の石森や塩後などの現在の東山梨郡一帯で代官を務め手腕を発揮した武田二十四将のひとり。
はじめ武田信玄の奥近習として仕えていたが、信玄にその才能を認められて侍大将に出世する。
武田家重臣の山県昌景にも気に入られ、その娘婿となる。
信玄の駿河侵攻の折には花沢城攻略で一番槍の武功を立てたことにより武勇を知らしめ、山県昌景から名刀『吉光』を与えられ、山県姓を与えられる。
1575年の長篠の戦いでは鳶ノ巣山の砦を守備していたが、織田勢の酒井忠次率いる別働隊の襲撃を受けて戦死した。
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武田信虎の九男であり、武田信玄の異母弟。
甲斐源氏の名家一条家の名跡を継いでいる。
武田家家臣の親類衆として兄・信玄、甥の武田勝頼の2代に仕える。
合戦では主に本陣後衛を担当していた。
駿河国侵攻では田中城代、駿府城代を務める。
天正3年(1575年)の長篠の戦いに参戦して生き延びるが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡時に徳川家康の軍と戦って討死にした。
合戦の度に馬鞍、武具、具足などの諸道具を新しく整えたり、諸国の浪人に常に眼を配り優秀な武士を召抱えるなどして周りから『伊達者』と呼ばれた。
このことは甲陽軍鑑の中で山県昌景の言葉として『一条殿は馬鞍武具等これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている。』と残されている。
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