
武田信玄の銅像
こちらは甲府駅前にある武田信玄の銅像。
JR中央線の甲府駅を南口進むとロータリーの右手、交番の近くに悠々と腰を降ろした姿をみることができる。
甲府の町並みを見守るかのようにたたずむその姿は雄大な雰囲気を漂わせている。
特に春になるとバックに桜の花びらが満開となり、多くの観光客の撮影スポットとして人々が集まっている。
甲府駅前のロータリーと平和通りと呼ばれるこの場所では毎年4月の第一土曜日に『信玄公祭り』が開催され、信玄と武田二十四将の率いる甲州軍団が鎧をまとい、騎馬を伴い行進するさまは戦国さながらの様相を呈する。
武田信玄の銅像はどんな気持ちで現代を見つめているのであろうか?
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萌木の村レストラン:ROCK
ここにはホントにうまい地ビールがある・・・
特にその中でもお気に入りは
『DUNKEL』(デュンケル)である。
深みのあるその色合いは琥珀色に輝き、その味わいは濃厚なまでのコクが口いっぱいに広がる。
なんとも懐かしい昔ながらの味わいが楽しめる。
2005年全国酒類コンクール・ビール部門では優秀賞を受賞しているという。
場所は山梨県北杜市でJR清里駅を南に下った交差点に位置する。
萌木の村と呼ばれる複合施設の中にあり、他にも宿泊施設やオルゴール博物館などもある。
先日も同市の風林火山館へ立ち寄った帰りに、わざわざデュンケルを飲みたいがために『ROCK』に立ち寄った。
地ビールはタッチダウンビールと名付けられている。
これは清里に縁の深いポール・ラッシュ博士が日本にはじめてアメリカンフットボールを伝えたことに敬意と尊敬の念を込めているのだという。
持ち帰り用に販売しているのでお土産としてもいいかもしれない。

信州先方衆:真田信綱
信濃の真田幸隆の長男として生まれ武田信玄、武田勝頼の二代に仕える。
父・真田幸隆とともに武田信玄に臣従し武田家家臣として仕える。
永禄4年(1561年)の第四回川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっている。
父である幸隆や弟の昌幸に比べると史実上は目立った功績の記録は少ないが、武田二十四将に数えられる逸材であり、どちらかというと寡黙であるが実行力を伴い、周りからの信任が厚い武将である。
信州先方衆として200騎を率い、常に最前線での先鋒として活躍する。
天正2年(1574年)に幸隆が死去すると真田の家督を継いでいる。
家督を継いだ後は真田勢を率いて長篠の戦いで奮戦するも、弟である真田昌輝と共に戦死する。
真田家は以後真田昌幸へと受継がれていく。
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口コミ情報:信玄ソフト
大ブームってわけではないけど、口コミでジワジワとそのその存在が知れ渡っている『信玄ソフト』。
私の知る限り中央自動車道の釈迦堂パーキングエリアで販売されているものが元祖かと・・・
ソフトクリームに『信玄餅』(前回ご紹介したきな粉をまぶしたお餅)が乗っかっていて、さらに黒蜜がトローりとかかっている。
値段はちょっとお高く¥380。
でもぜひ一度は味わってほしい一品でなかなか美味しいデザートである。
現在は類似品が清里などでも販売されておりそれぞれに嗜好を凝らしたものでそれはそれでいいのだが、やっぱり『釈迦堂パーキング』のものを一度は味わって頂きたい。
武田信玄もこんな形で自分の名前が広まっているとは・・・
さすがに思いもよらなかったであろう。
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甲州銘菓:信玄餅
山梨県の土産物として人気の高いのが『甲州銘菓:信玄餅』である。
『信玄餅』はほのかな甘みのある餅にきなこの粉をまぶしたもので、付属の黒蜜をかけて食べるお菓子である。
郷土の英雄として根強い人気を誇る武田信玄の名をネーミングに使用した山梨の代表的なお土産として販売されている。
この商品名で複数のメーカーから類似品が出ているが、代表的なメーカーとしては、『桔梗屋』と『金精軒』の二つが特に有名である。
ぜひ当地へお越しの際はお土産として、またご自身用としてご賞味頂きたい一品である。
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戦勝祈願の寺:雲峰寺
《トモ蔵》
勘助殿。今回は武田家の戦勝祈願の地:雲峰寺についてのご報告でござる。
■雲峰寺
戦勝祈願寺として武田家とは縁が深く、本堂、仁王門、庫裡はすべて重要文化財である。
武田信虎の再建したと言われる室町時代の建築物。
天正10年(1582年)に武田勝頼が天目山で自刃したあと、逃れた家臣が再興を期してひそかにこの寺に納めたといわれる武田の軍旗『孫子の旗』などが所蔵されている。
境内にある桜の巨木は春になると鮮やかな色に染まり見事なものである。
この桜は天然記念物に指定されている。
立地的には甲州市(旧塩山市)の山間に位置し、大菩薩峠や柳沢峠などの入口となる裂石と呼ばれる一帯にあたる。
大菩薩峠の登山口ということで登山シーズンには多くの登山家も訪れている。
境内は登山道より更に一段上部にあるため、案外にひっそりとした雰囲気に包まれている。
この静けさと、寺の重厚なたたずまいは戦国時代に想いを馳せるにはうってつけの場所となる。
以上、如何でござる???
《山本勘助》
昔さながらの雰囲気の残る雲峰寺・・・
お館様も戦勝祈願のため この寺に厚く帰依しておりました。
『孫子の旗』も現存しておるとは、これは必見の価値ありです。
またのご報告をお待ちしております。
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夜襲のスペシャリスト:多田満頼
武田信虎、武田信玄の二代に仕え淡路守を称す。
もともとは美濃国の浪人で、武田信虎の時代に甲斐に入り足軽大将として登用される。
その猛勇豪傑を伝える逸話として『火車』と呼ばれた鬼を退治したという話が語り継がれている。
主に信濃虚空蔵山城の守衛にあたっていた。
特に隠密行動による夜襲を得意としており、与えられた兵士の数は少なかったがこの分野で右にでるものはなかった。
武田信虎は追放先となった駿河において、今川家臣に武田家の武将の話をする折には多田満頼の名前を挙げてその豪胆さを自慢したという。
武田信玄の代となる頃には既に老齢に達していたが、信玄からの信任も厚かった。
第4回川中島の戦いの折には病床に伏せており参戦できなかったが、息子が替わりに参戦している。
生涯で29度の感状を拝領し、負った手傷は27ヶ所にものぼったという。
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川中島の古戦場
《トモ蔵》
勘助殿、今回は武田勢と上杉勢との間に起こった川中島の戦いをご紹介致します。
■川中島の戦い(第4回)
三国同盟で後塵の憂いがなくなった武田信玄は信濃攻略に取り掛かっていた。
ほぼ信濃を平定していた折に村上義清が越後を頼ったことにより越後・上杉勢との信濃を巡るお互いの牽制が始まる。
海津城の築城により喉元に刃を突きつけられた形となった上杉勢はこれを排除するべく軍勢を川中島南部の妻女山に布陣する。
海津城の高坂昌信より知らせを受けた武田信玄も甲斐・古府中を出発しこれに応戦する。
しばらく睨み合いが続くが士気低下を防ぐため、信玄は軍勢を一旦海津城へ引き上げる。
その後両軍は睨み合いとなるが、山本勘助の提案である『啄木鳥の戦法』(別働隊で妻女山の後ろを尽き、敵が出てきたところを挟撃する)を採用した信玄は、高坂昌信に奇襲部隊12,000人を預け上杉軍が籠る妻女山への攻撃に向かわせた。
残りの兵8,000人を率いた信玄は海津城を出撃し別働隊の攻撃によって逃れてくるはずの上杉軍を待ち構える。
しかし、前夜海津城から立ち上る炊煙の多さによって夜襲を察知した上杉謙信は軍勢を率いて深夜に下山する。
夜明けとともに濃い霧の中から上杉勢が武田勢に襲い掛かる。
武田信玄は『鶴翼の陣』で対抗するが『車懸りの陣』で突き進んでくる上杉勢に防戦一方の形となる。
信玄の弟・武田典厩信繁が身を挺しての防戦にあたり持ちこたえているところに武田の別働隊がようやく到着する。
形成は一気に武田方に傾き、反撃に打って出る。
結局戦いは五分五分の引き分けに終わるが、武田勢は武田信繁・山本勘助などの貴重な武将を失ってしまう。
この戦いには諸説があり、本当は両軍とも大きな戦いを避けたいという意向があり、ある程度対峙した後に軍勢を引き上げるつもりだったという説もある。
軍勢を引き上げている最中に、たまたま当日発生した濃霧により武田・上杉の両軍が目の前で遭遇、そのまま戦いに突入してしまった。
(過去の川中島では対峙するだけで大きな戦いにはなっていない為。)
いずれにせよ、ここ川中島で大きな戦いが勃発し、両軍の多くの兵士たちが亡くなっていることは事実である。
以上、勘助殿も激闘の末 終焉を迎えた地・川中島についてでござる。
《山本勘助》
いやはや、川中島についてのご報告に感謝します。
今は長野インター付近で古戦場として整備されているご様子。
お館様と上杉謙信との一騎打ちの銅像も見事でござるのう・・・
トモ蔵殿、またのご報告をお願い致します。
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鬼虎の長男:小幡昌盛
小幡昌盛は前回ご紹介した鬼虎:小幡虎盛の長男である。
昌盛は武田信玄、武田勝頼の二代に仕え、父子ともに武田二十四将に数えられる猛者である。
1554年(天文23年)の北条氏康との富士大宮戦や1561年(永禄4年)の第四回川中島の戦いでも戦功を上げるほどに、父の勝るとも劣らぬ武勇を誇る。
武田信玄に『鬼の子には鬼の娘が相応しい』とまで言わせる程であり、鬼美濃こと原虎胤の娘を妻に迎えている。
父・虎盛が亡くなった後は父を継いで海津城副将の地位にと推薦されている。
しかし昌盛は旗本になることを強く希望し、この誘いを断っている。
あくまでも旗本を目指す昌盛は足軽大将としての地位に留まり、騎馬3騎・足軽10人を預かり17回の合戦で17の功名を上げている。
信玄亡き後は勝頼に仕えることとなる。
長篠の戦いの折には病床に伏しており参戦はしていない。
結局のところ父・虎盛と同様に床に伏したまま病死という結末を迎えてしてしまうが、亡くなったのは勝頼自刃の5日前であった。
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鬼虎と呼ばれた男:小幡虎盛
小幡虎盛は武田信虎、武田信玄の2代渡り武田家臣としてに仕える。
元来は遠江の出身で、父親が武田信虎に仕官したのに伴い甲斐武田家臣団となる。
信虎時代は足軽大将として甲斐国内の統一へ向けた戦いや今川、北条との戦いで武勇を馳せる。
その功績が信虎に認められ、『虎』の一字を貰い受け虎盛と名乗る。
その凄まじいまでの武者振りは『鬼虎』と呼ばれ多くの武将より恐れられる。
信玄の代になってからもその武名は衰えることを知らず、数々の戦いで活躍する。
その後も高坂昌信の副将となり、昌信の右腕として海津城に入り上杉勢に睨みをきかせる。
生涯で36度の功名をあげ、全身にあびた手傷は41ヶ所にものぼったという歴戦の勇将である。
1561年(永禄4年)6月に『鬼虎』も病には勝てずに病死する。
遺言として『よくみのほどをしれ』との言葉を残し、子孫たちを戒めた。
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信玄の長男:武田義信
武田信玄と正室・三条の方の長男として生まれる。
駿河・相模・甲斐の三国同盟の政略結婚として今川義元の娘を正室として迎える。
偉大な父・信玄の影に隠れ、内政面での大きな功績を残した記録はないが、1561年の第四回川中島の戦いを代表とする信濃攻略に際してはいずれも出陣しそれぞれに武功を挙げている勇敢な武将である。
父親である信玄とは弱体化する駿河・今川氏への侵略に際して意見の食い違いが表面化する。
義信は妻の気持ちを思いやり、駿河侵攻に断固反対の姿勢を見せる。
そんな義信の気持ちとは裏腹に、信玄は駿河・今川との同盟を破棄し、駿河への侵攻を決定する。
飯富虎昌と通じて謀反を計画するも、山県昌景(飯富虎昌の弟)の報告により計画が発覚し未遂に終わる。
飯富虎昌は責任を一身に引き受けて自害し義信の罪を軽減しようとしたが、結局義信は東光寺に幽閉されてしまう。
幽閉中に死亡しているが、自害とも病死とも伝えられている。
その真相は本人のみぞ知るところである。
結局この事件により武田勝頼が信玄の跡を継ぐこととなるが、勝頼と譜代の家臣団との間にギクシャクした関係が垣間見えるのはこのことが遠因とみることもできる。
武田義信も実は人望も厚く、ただ血気盛んなだけの武将ではなかったとの再評価も近年の研究により進んでいる。
もし武田義信・勝頼の二人が手をとり協力して武田家を受継いでいたならば、その屈強な家臣団とともに史実と違った武田家の結末を迎えていたのではなかろうか。
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大河ロケ地:風林火山館 完成
2007年大河ドラマ・風林火山の撮影舞台となる風林火山館が完成した。
一般への公開は9月7日(木)からの予定。
場所は北杜市長坂町小荒間2112番地で中央自動車道では小淵沢ICから八ヶ岳横断道へ入り、小荒間交差点を右折して約300mぐらいのところである。
開館時間・休館日
■開館時間
9:30〜17:30(4月〜10月)
9:30〜16:30(11月〜3月)
毎週火曜日は休館予定
■観覧料
大人 300円
子供 100円
完成した風林火山館は武田家の躑躅ヶ崎館としてドラマの撮影に実際に使用される予定。
周辺は八ヶ岳の大自然を満喫できる環境にあり、地元では観光拠点として大河ドラマに寄せる期待も大きい。
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