武田信玄の副収入のススメ
戦国時代最強の武田騎馬軍団・・・ その最強家臣団を支えたのが金山採掘による甲州金・・・ 現代によみがえる武田信玄の戦略・・・ まずはコツコツとお小遣い稼ぎから!!!
海道一の弓取り:今川義元



海道一の弓取り:今川義元

現在は公園となっている善得寺において駿河の今川義元、相模の北条氏康、甲斐の武田信玄の三者会談が行われ、婚姻政策による三国同盟が成立した。
この三国同盟はお互いに協力して他国を攻めるといった性質のものではなく、いわばお互いの不可侵を約束するものであった。
これにより甲斐の武田信玄は信濃・越後へと、相模の北条氏康は北関東・房総へと、駿河の今川義元は尾張へとそれぞれの思惑に専念することができるようになった。
尾張の織田信秀の死を受けて、動揺する織田家に対して制圧作戦を開始、そのままの勢いで京の都まで上洛するべく義元はいよいよ大軍を率いて挙兵した。
時は1560年、尾張では信秀の後を継いだばかりの織田信長は、義元の西上作戦を聞きつけ僅かばかりの手勢で城を駆け出た。
信長は田楽狭間(現在の豊明市)で休息中している義元の本陣へと降っている雨に乗じて電光石火の襲撃で突撃し、義元を討ち取る。
『桶狭間の戦い』と呼ばれるこの戦いで主君を失った今川家は衰退への路をたどり、一方勝利した織田信長はそのままの勢いで戦国の覇者への階段を駆け上っていく。
義元の死によりそれまで松平家帰順の人質とされていた徳川家康も三河で独立し、戦国大名として着々と地力を養っていく。
公家文化に精通し、大きな武名が残されている訳でもなく、劇的な最後を遂げた義元であるが、決して凡庸な武将であったわけではない。
駿河・遠江・三河の三国の膨大な領地
(東名高速道路を走ればお分かり頂けるかと思うが、三島・沼津から静岡県に突入すると、富士、清水、静岡、浜松と延々と続く領地である)
を治めていたその能力は、やはり一角の武将としての資質、統治力がなければ務まらない。

海道一の弓取り』という称号・・・ まさに言い得て妙である。

FC2 Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ ←←← どうかお願いでござる!!