武田信玄の副収入のススメ
戦国時代最強の武田騎馬軍団・・・ その最強家臣団を支えたのが金山採掘による甲州金・・・ 現代によみがえる武田信玄の戦略・・・ まずはコツコツとお小遣い稼ぎから!!!
甲斐郡内の雄:小山田信茂



甲斐郡内の雄:小山田信茂

甲斐国の郡内地方にある岩殿山城主で左兵衛尉出羽守を称す。
小山田氏は甲斐郡内地方を領し、都留郡の守護として名を知られた豪族である。
武田家には武田信虎の代のときに臣従するが、固有の領主権は認められていた。
小山田氏単体でも強大な勢力を保有しており、独自の勢力圏を形成していた。
岩殿山城を居城として特に対北条氏への防衛担当として守備にあたる。
信茂は信玄、勝頼の武田二代に渡り仕官し、川中島の合戦や対小田原北条氏戦などで名を馳せた。
長篠の戦い以降徐々に優勢となっていた織田軍が武田殲滅作戦のために甲斐国に迫ると、勝頼に自身の居城である岩殿山籠城を進言した。
このとき勝頼受入れについては上田城の真田昌幸も名乗りをあげていたが、結局勝頼は小山田信茂の岩殿城への入城を選択する。
ところが事態は急転、その途中で小山田信茂は保身のため主家に背き勝頼に牙を向ける。
天目山で勝頼は従う僅かの手勢の見守る中、自害して果て武田家はここに滅亡の憂き目となってしまう。
しかしこの行為は敵方・織田信長にも主家を裏切る反逆行為としてひどく侮蔑され、磔に処されてしまう。

主家を裏切った背信者としてのイメージが強く残って現在に伝えられているが、もともと甲斐国内も武田家の一枚岩だったわけでなく、武田家とは同盟関係にあった豪族との見方もある。
結果的に武田家を滅亡させてしまったという事実は否めないが、武田二十四将のひとりに数えられる武将であり、それ以前の実力や功績が色褪せることはない。

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信玄の遺産を受継ぐ者:徳川家康



信玄流の継承者:徳川家康

三河の松平広忠の嫡男として、岡崎城で生まれる。
幼少時代は駿河の今川義元のもとで人質として過ごす。
今川義元が上洛作戦を決断し西へと向かう際も今川軍の先陣役として従軍していた。
途中、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、総崩れする今川勢とは距離を置き、故郷である三河の岡崎城に入り、ここで今川氏から独立を果たす。
独立後も織田勢と小競り合いを繰り返していたが、今川氏真とは断絶して一転、尾張・織田信長と同盟を結ぶ。
武田信玄が駿河・今川攻めを開始する頃は武田・徳川も手を結び、家康は今川領の遠江国の大半を攻略し、足元を固めるとともに浜松城の築城にも着手している。

元亀3年(1572年)武田信玄は遂に上洛に向けて軍をおこすと、一言坂の戦いで信玄の巧みな戦略に翻弄され家康はあっけなく浜松城まで逃げ帰る。
その後も遠江の要衝であった二俣城が陥落するなど徳川軍の劣勢は否めない。
浜松城での篭城作戦を取っていたが武田信玄は浜松城を無視して素通りして三河へ侵攻する気配を見せる。
プライドと面子をかけて家康は家臣団が篭城作戦の続行を進言するのも振り切って出陣する。
かくして三方ヶ原の戦い(現在の静岡県浜松市)で徳川・織田連合軍は武田信玄の戦略の前で大敗を喫し、家康自身も馬上で脱糞するほどの恐怖を味わい命カラガラ浜松城に逃げ帰る。
家康の凄いところはこの敗戦を自らの教訓として忘れないために、苦渋に満ちた表情を肖像画として残し、以後の戒めとして身近に置いたという点である。
なかなか自分の失敗を認めることは勇気がないとできないことである。
しかし武田信玄も上洛作戦の途中病に倒れ、甲斐へと軍勢を引き戻している。
信玄なきあとの武田と徳川の力関係は一転し、織田・徳川勢の勢いはいよいよ増していき、武田家を滅ぼすとともに天下統一へ向けて突き進んでいく。
本能寺の変で織田信長が倒れると、今度は豊臣秀吉が台頭してくる。
秀吉なき後も豊臣秀頼・秀吉の遺臣達と徳川勢との間で関ヶ原の戦いが勃発する。
この戦いを様々な戦略・策略を以って制した徳川家康は、長きに渡る戦国レースを終結させて天下を統一、征夷大将軍へと階段を登っていく。

家康の兵法や内政の手法や考え方については、その多くを武田信玄を手本としていたといわれる。
武田家は結局滅んでしまったが、その甲州流の血筋は脈々と徳川家康のなかで継承されていく。
江戸時代になってからも甲斐は藩制をとらず徳川幕府の直轄領となったこともそんなことが影響しているのかもしれない。

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大河ドラマ『風林火山』:撮影スタート
大河ドラマ『風林火山』:撮影スタート

2007年の大河ドラマは
原作:井上靖の『風林火山』である。
もちろん主役は武田信玄軍師・山本勘助である。

先日山梨県の北杜市でいよいよ撮影がスタートした。
なんだか少しだけ待ち遠しい気分かなぁ。

NHKの大河ドラマってやっぱり出演者の質が高いというか・・・
このまま受信料の徴収が滞ると、段々と質が落ちていくのか?

ともあれロケは開始したのだから
来年のドラマのスタートまでゆっくり待つとしよう!!

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武田信玄の甥:穴山信君



武田信玄の甥:穴山信君

穴山信君の母は武田信玄の姉・南松院であり、更に妻は信玄の娘・見松院(見性院)という武田家とは深い姻戚関係を持ち信玄の甥にあたる。
本人にも武田家の血筋が色濃く(4分の3)流れており、他の武将と比較しても武田家一門衆として重きをなす。
後に入道して梅雪斎と称す。
主に鉄砲隊を率いて戦場に望み、川中島・三方ヶ原・長篠など戦いで本陣の守備部隊として従軍する。
武田信玄の没落後は後継者・勝頼の親類衆の筆頭として登用され、武田家臣団のなかでもその発言力・影響力は強いものがあった。
長篠の合戦で戦死した山県昌景の後任として江尻城主となると、東海地方における防衛に傾注する。
甲斐と江尻城の間に伝馬を設けて輸送・通信網を整備したり、城下町の造形にあたるなど、内政面での改革に着手している。
武田勝頼が甲斐・韮崎に新府城を築城したこともこの信君の進言によるものである。

しかしここで転機が訪れる。
次第に勢いを増す織田信長の武田殲滅作戦を目の当たりにして、武田家に見切りをつけてしまったのか? 徳川家康を通じ、織田方に降り寝返ってしまう。このとき旧領は安堵されている。
一説にはもともと武田勝頼と折り合いが悪かったともいわれるが、いずれにせよ一門衆の穴山信君の裏切りにより武田家滅亡はその勢いを加速していく。

家康とともに信長に謁見するために和泉国の堺に滞在していたところ、明智光秀による本能寺の変が勃発、信長も討たれてしまう。
これを知った信君は急ぎ伊賀越えで帰国しようとしたが、その途中で一揆に遭遇し土民に襲われ落命する。

後世に自家を存続させるためには主家への裏切りも常であった戦国時代・・・
その所業を責めることはできないが、悲しい結末である。

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岩村城代・秋山信友



岩村城代:秋山信友

武田信玄、武田勝頼の二代に仕えた武田家臣団のひとりで伯耆守と称す。
信玄の信濃国攻略に際して特に伊那地区の攻略で戦功を挙げ上伊那郡代に登用されている。
以後も各地を転戦し、高遠城、飯田城などの信濃方面の主要地域での防衛面を主にを任される。
武田家臣団のなかでは武勇面に秀でる武将のひとりであるが、それだけではなく信玄の娘・松姫と織田信長の嫡男・織田信忠との婚約成立の歳には信玄の全権を任された名代として岐阜へ赴いている。
織田信長もこの婚儀成立には慶びを前面に表し、信友を長良川の鵜飼でもてなしている。
飯田城代に就任してからは他国との国境警備と共に美濃国攻略を担当している。
そんな中で遠山景任の守っていた岩村城の攻略へ向かう。
この岩村城は無血開城させるが、その折には遠山景任の正室である信長の叔母を妻に迎えることを約束し、実現している。
その後はこの岩村城の城代を任命される。
信玄死去後も勝頼を補佐して美濃出兵を援護したが、天正3年(1575年)長篠の戦いで武田軍が大敗すると岩村城は孤立してしまう。
再三再四、織田信忠の軍の猛攻を受けるがこれをかわしつつ、良く持ちこたえていた。
しかしついに織田信長が自ら本隊を率いて岩村城を包囲する。
本国より援軍の見込みがなかった信友は城兵の保身を約束に開城を決意し実行する。
しかし信長にはこの約束を果たす気は毛頭なく、秋山信友と信長の叔母である妻を長良川で磔刑にしてしまう。
もちろん城兵もひとり残らず討ち取られてしまっている。

一度は鵜飼で接待された長良川で奇しくも同じ場所で磔となってしまうとは・・・
運命とは時に予想もしない結末を迎えるものである。

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甲斐善光寺



甲斐善光寺

《トモ蔵》
勘助殿、今回は甲斐善光寺についてご報告致します。

甲斐善光寺
永禄元年(1558年)甲斐の戦国大名・武田信玄により開山する。
甲斐善光寺は武田信玄が越後の上杉謙信との間で川中島の戦いが勃発したことを受けて、信濃善光寺に戦火で焼失することを危惧して、自分の領地である甲斐に本尊をを移したものである。
現在の金堂は寛政8年(1796年)に再建されたものが現存している。
金堂中陣天井には江戸の希斎という画家によって巨大な龍が二匹描かれており、手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こる仕掛けとなっている。これは『鳴き龍』と呼ばれる仕掛けの中でも日本最大規模を誇り多くの参拝者が訪れる名所でもある。
その特有の建築方式は撞木造と呼ばれ、現存する木造建築物としては東日本では最大規模のものである。
この金堂、本尊は前衛である山門とともに重要文化財の指定を受けている。
躑躅ヶ崎館の跡地である武田神社の南西の方角に位置し、その距離は僅か3〜4km程度である。
7年に一度ご開帳される頃には、特に多くの参拝者が訪れている。

以上でござる。


《山本勘助》
お館様が移設した甲斐善光寺についてのご報告、ご苦労でござった。
また次回のご報告を楽しみにお待ちしておりまする。

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時代の先駆者:織田信長



時代の先駆者:織田信長

もはやこの人物については詳しい説明は要らないほどに有名な武将である。
武田信玄を現代で言うなれば、企業組織に人材を適材適所に配置し、その意見を集約して企業方針を決定、その方針に従って邁進するオーソドックスなタイプの社長であろう。
一方、織田信長はすべてにおいてトップダウンで物事を即断・即決、斬新なアイデアで局面を乗り切っていくベンチャー企業の一匹狼タイプの社長であると言えよう。

尾張守護代・織田信秀の長男として生まれた織田信長は、父の死後家督を18歳で相続した。
1560年の桶狭間の戦いにおいて攻め寄る今川義元の大軍を奇襲戦法により撃破して,天下に勇名を馳せた。
次第に勢力を拡大していくなか、将軍・足利義昭と対立し、武田・浅井・朝倉・三好・比叡山・本願寺・毛利などの信長包囲網にも果敢に対抗していく。
武田信玄との直接対決は実現しなかったものの、信玄亡き後の武田家とは後継者・武田勝頼を長篠の戦いにおいて相まみえている。
信長は3000丁の鉄砲と防護柵で武田騎馬軍団を撃破し、武田家を滅亡へと追い込んでいる。

天下統一を目前にしながら1582年6月に『本能寺の変』が勃発する。
自軍のなかでも優秀な武将・明智光秀の謀反により、明智軍の襲撃を受け進退極まり自ら本能寺に火を放つ。
結局その焼け跡の中からは死体は発見されていない。

時代の先駆者とも言えるほどに色々なアイデアを具現化し、その先見性は他を圧倒することは誰もが認める事実であろう。
楽市楽座を奨励し堺を一大商業都市としたり、兵農分離で軍隊の傭兵化を推し進めたり、いち早く鉄砲部隊による戦術方法の確立などはその一例に過ぎない。

その天才的才能の保有者が故に、家臣団の不平不満に気づかなかったのであろうか・・・
家臣団への思いやり(仁義)がもう少しあったならば、間違いなく自ら天下を手中に治めたであろう。

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唯一の敗戦相手:村上義清



唯一の敗戦相手:村上義清

村上義清はその勇猛で知られた信濃の葛尾城主であった。
武田信玄の生涯の戦歴の中で、一度ならず二度までも敗戦と言える経験させた武将である。
信玄が経験した一度目の敗戦は『上田原の戦い』であり、初鹿野伝右衛門、板垣信方、甘利虎泰などの武田家 家臣団でも中心的な武将をことごとく討ち取られた。
二度目の敗戦は『砥石城の戦い』であり、ここでも武田家 家臣の横田備中守高松を失っている。俗に言う『砥石崩れ』である。
このふたつの戦いで村上義清に敗戦を喫した武田信玄はこの後力攻めでの村上勢の攻略を断念し、真田幸隆による調略による切り崩しで村上家家臣団の取込みを開始する。
この結果村上家 家臣団は内部から崩壊し、砥石城は武田信玄の手中となり、村上義清は越後の上杉謙信を頼って越後に落ち延びることとなる。
旧領の奪還を期する村上義清は上杉家の後押しを受け、ここに武田信玄と上杉謙信との川中島における戦いが勃発することとなる。
その後、上杉家臣となった村上勢は、1561年の第4回川中島の戦いにおいて信玄と再び対戦し、信玄の弟である武田信繁を討ち取る。

やはり人間としてどうしても相性の合わない者というものは存在するもので、信玄にとってこの村上義清とはまさにこれに該当するのであろう。
また敗戦から学ぶという点ではこれ以上にない教訓を残してくれた対戦相手でもあり、信玄の戦い方は以降『決して負けない』準備と戦略により推進されていくこととなる。
そういった意味でも村上義清は武名高き戦国武将のひとりである。

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小田原城主:北条氏康



小田原城主:北条氏康

戦国大名としての北条家の始まりは『戦国時代の先駆者』といわれる『北条早雲』から始まる。
早雲の子である北条氏綱の時代に関東に進出し、氏綱の子・北条氏康に受け継がれ、相模の雄として関東一帯を支配することとなる。
1545年の『河越の戦い』において山内上杉勢・今川勢などの連合軍・8万の軍勢を相手に10分の1のわずか8千の兵で対抗し、これを退けたことで北条家の武名を知らしめる。
どちらかというと武勇の面よりも政治家として非常に優秀な足跡を残している。
他に先駆け『検地』を実施して税収を集める手法を取り入れるなど、経済改革を実行している。
北条家の居城といえば越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄など名立たる武将が攻めあぐねた『難攻不落の小田原城』である。
現存する小田原城郭もかなり広大なものであるが、当時はそれよりも更に大規模で堅固な城郭であった。
小田原城の存在により幾多の強敵を退けてきた北条家は1571年に氏康が病により没した後、氏政・氏直と代をかえていく。
その頃になると日本をほぼ制圧した豊臣秀吉に対して和平派と主戦派とで意見が別れ、家臣団の会議でも結論がなかなか出てこない。
俗に時間ばかりが過ぎてなかなか結論がでない会議のことを『小田原評定』と呼ぶのはこのことに由来するという。
もはや、日本をほぼ手中にしている豊臣秀吉と北条家では歴然とした力の差があり、難攻不落の小田原城を以ってしても持ち堪えることはできなかった。
結局北条家は降伏して敗北、北条氏政は切腹、北条氏直は流刑となり相模の北条家は実質的に滅亡となる。
歴史上ではやはり北条氏康の統治していた頃が相模・北条家の絶頂の時代であったと言えるであろう。

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信玄の弟:武田信廉



信玄の影武者(実弟):武田信廉

甲斐武田信虎の四男であり信玄の弟。後に出家して武田逍遙軒(しょうようけん)と称す。
第4回川中島の戦いで兄の信繁が戦死した後、親族筆頭となり主君・信玄と家臣団とのパイプ役として武田家を支える。
主に後方守備や本陣守護などの役割を務める機会が多かった。
武田信玄と信廉は兄弟だけに容貌・雰囲気が似ており、影武者を務めたともいわれる。
徳川家康との三方ヶ原の戦いの後、信玄が京の都への上洛作戦途上の夢なかばにして信濃の駒場で病死した際にも、信玄の死を内外に悟られぬようにと影武者役を勤めた。
信玄の死後は深志城代や高遠城主などを歴任しながら後継ぎである武田勝頼を重臣として立場で貢献する。
尾張の織田信長の甲斐・武田家への侵攻が開始されると一度は甲斐・古府中に戻り体制を立て直そうとするが、捕らえられ斬首されてしまう。
画家としての才能にも恵まれた武将で、父・武田信虎や母・大井夫人の肖像画なども現存している。

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海道一の弓取り:今川義元



海道一の弓取り:今川義元

現在は公園となっている善得寺において駿河の今川義元、相模の北条氏康、甲斐の武田信玄の三者会談が行われ、婚姻政策による三国同盟が成立した。
この三国同盟はお互いに協力して他国を攻めるといった性質のものではなく、いわばお互いの不可侵を約束するものであった。
これにより甲斐の武田信玄は信濃・越後へと、相模の北条氏康は北関東・房総へと、駿河の今川義元は尾張へとそれぞれの思惑に専念することができるようになった。
尾張の織田信秀の死を受けて、動揺する織田家に対して制圧作戦を開始、そのままの勢いで京の都まで上洛するべく義元はいよいよ大軍を率いて挙兵した。
時は1560年、尾張では信秀の後を継いだばかりの織田信長は、義元の西上作戦を聞きつけ僅かばかりの手勢で城を駆け出た。
信長は田楽狭間(現在の豊明市)で休息中している義元の本陣へと降っている雨に乗じて電光石火の襲撃で突撃し、義元を討ち取る。
『桶狭間の戦い』と呼ばれるこの戦いで主君を失った今川家は衰退への路をたどり、一方勝利した織田信長はそのままの勢いで戦国の覇者への階段を駆け上っていく。
義元の死によりそれまで松平家帰順の人質とされていた徳川家康も三河で独立し、戦国大名として着々と地力を養っていく。
公家文化に精通し、大きな武名が残されている訳でもなく、劇的な最後を遂げた義元であるが、決して凡庸な武将であったわけではない。
駿河・遠江・三河の三国の膨大な領地
(東名高速道路を走ればお分かり頂けるかと思うが、三島・沼津から静岡県に突入すると、富士、清水、静岡、浜松と延々と続く領地である)
を治めていたその能力は、やはり一角の武将としての資質、統治力がなければ務まらない。

海道一の弓取り』という称号・・・ まさに言い得て妙である。

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仁義の猛将:原虎胤



仁義の猛将:原虎胤

初め下総の千葉氏家臣であったが国を追われのち武田家の家臣となる。
武田信虎、武田信玄の二代に渡り仕官し美濃守を称す。
大永元年(1521年)の甲斐飯田河原戦では今川勢の北条綱成の父である福島正成を討ち取るという功績を挙げるなど、信虎時代の若手武将として活躍する。
信玄の代となる頃には既に家臣団でも老臣といえる地位に就いており、信玄からも大いに頼られる武将であった。
猛将としての武勇は鬼美濃、夜叉美濃と評されて敵国の武将より恐れられるほどであったが、その一方で攻城戦の名手でもあった。
虎胤が攻め落とした城は、補修が最低限で済みそのまま自国の城として活用できるほどであった。
ただの猛将というだけではなく仁義にも篤く、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届け、『元気な姿で再び戦場で相まみえよう』と労ったという逸話も残っている。
永禄4年(1561年)信濃国割ヶ巌城の戦いで負傷し、その傷が癒えぬまま第4回の川中島の戦いを迎えるがここでは参戦しないままに終わってしまう。
その後は第一線より退き68歳で亡くなるが、虎胤が称した美濃守をその武勇にあやかるために馬場信春が引き継いでいくこととなる。

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ネットDEやきゅうYYスタジアムに参戦
《山県昌景》
お館様、馬場殿と高坂殿がお見えになっています。

《武田信玄》
これに呼んで参れ!!

《馬場信春》
お館様、武田家の次なる副収入に向けた策をご進言致します。
詳細は高坂殿よりご報告させて頂きます。

《高坂昌信》
今回ご紹介致しますのは、今までとは趣向を変えまして、なんと
遊びながら賞金を稼ぐ』方法について申し上げます。
ネット上で野球チームを作成して、他国のチームと戦いながら、最高賞金50万円の獲得を目指すというものです。
詳細は以下に・・・


ネットDEやきゅうYYスタジアムに参戦

まずは参戦するためには簡単な登録が必要です。
IDやパスワードを設定したら後は簡単。
毎日1回ログインするだけで自動的に試合が行われます。
試合は勝手に行われるので、野球に関する知識や技術も必要なく参戦できます。
決められたシーズンごとに優勝者には『最高50万円』が与えられます。
優勝者以外にも打率、ホームラン数、打点数、最多勝利、最多セーブ数などの各項目ごとに自分のチームから該当者がいればそれぞれ賞金が設定されています。
まぁ、優勝を狙うためにはポイントを貯めて新戦力を獲得したり、地道にコツコツと練習をする必要がありますが、一番の魅力は楽しみながらあわよくば賞金をゲットできる可能性があるということです。
シーズンごとにドラフト指名や他チームの選手を入札し、自チームをコツコツと育てていくのは案外と楽しくてはまってしまいます。

以上でございます。

《武田信玄》
なんと、楽しみながら賞金を狙うとは面白そうじゃのう。
我が武田家も早速参戦して参ろうぞ!!

《高坂昌信》
では以下にリンクをご用意致しましたので、コチラから・・・



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両職のひとり:甘利虎泰



両職のひとり:甘利虎泰

板垣信方らとともに武田信虎・信玄の二代に渡り重臣として従事した武将で、家臣団のなかでも中心的人物。
信虎が治めていた時代から敵方より勇将としてその武勇は恐れられ、甲斐の国内を平定する際には大きな戦功をあげた。
天文10年(1541年)には板垣信方、飯富虎昌などと一緒に暴君信虎を駿河に追放するため信玄を支持して『無血クーデター』を実現する。
信玄の代となってからは、板垣信方とともに『両職』と呼ばれる家臣団の中でも絶対的な発言力をもつ立場として、若い信玄を大いに支えた。
天文17年2月14日(1548年)の上田原の戦いにおいて、村上勢が板垣信方を討ち取ると、更に進撃してくる村上軍から信玄を守るため孤軍奮闘しながら戦死を遂げる。
この戦いで板垣信方・甘利虎泰を失った信玄であったが、この二人の死は若さにまかせた信玄の血気に逸る戦略をたしなめる意味合いもあったとの見方もある。
いずれにせよ二人の宿老亡き後の家臣団は一気に若返りを果たし、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信といった『武田の四名臣』が台頭してくることとなる。

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越後の飛龍:上杉謙信



越後の飛龍:上杉謙信

上杉謙信は長尾為景の子として越後の春日山城に生まれた。
もともと乱暴な素行が目立っていたため、7歳の時に父・為景の指示により林泉寺の天室和尚に預けられた。
和尚は連れて来られた虎千代(謙信)を一目見るなり、その秀でた天性を認め、ただの出家僧として末遂げる人物ではないと将来を有望視した。
同年、父・為景は他界してしまうが、これを転機にそれまでの乱暴者は影を潜め、天室和尚の指導のもと学問、書道に没頭し、後に天下の英雄と呼ばれる謙信の基礎が築かれていく。

戦国武将として特筆すべきは、軍事面での天才的センスであり、戦闘の神様である毘沙門天の化身と恐れられた。
謙信自らも毘沙門天の生まれ変わりと称し『毘』を旗印としている。
謙信は幼少期を仏門で過ごしたため、信仰にも厚く義を重んじる性格の持ち主としても有名であり、生涯妻を娶らず実子孫を残していない。
私利私欲とは無縁の人物であり、愚直なまでにも大儀名分にこだわるその性格ゆえ、天下を治める者に成り得る能力に恵まれながらも関東管領にこだわり続け、上洛は果たせなかった面も伺える。
ただひとたび戦闘となれば、その強烈なカリスマ性により人心を掌握して軍勢を指揮し、戦国時代における希代の名将と言われる。
永遠のライバルである武田信玄とは川中島の戦いに代表される数々の場面で対峙し、お互いにしのぎを削る名勝負を展開する。
お互いに敵対していた武田信玄と上杉謙信であるが、お互いに好敵手としてその力量を認めていた。
信玄は後継者である武田勝頼に自分の死後は上杉謙信を頼るよう指示したとも言われる。

身内でも骨肉の争いが絶えなかった戦国時代において、常に正義感溢れる謙信の姿は、現在でも尚多くの人たちの心を捕らえて離さない魅力的な武将のひとりである。


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信玄の教育指南役:板垣信方



信玄の教育指南役:板垣信方


武田信虎・信玄の二代に亘って仕えた武田家の重鎮的存在の宿将であり、駿河守を称す。
少年時代の信玄に対して教育指南役である傅役を務め、育ての親とも言える存在であり、戦国武将・武田信玄の基礎を創りあげる。
甘利虎泰とともに両職として武田軍の指揮を取り、信濃の制圧においては戦闘面ではもちろん、領国の政治面でも尽力する。
天文10年(1541年)に信玄が父である信虎を追放した際、信玄をバックアップした中心的人物で、信虎を今川家へと送り届ける役目を果たし、無血クーデターを実現・成功させる原動力となった。
原虎胤・甘利虎泰・横田高松などの武将と共に、若き信玄の創業初期においてはその豊富な経験に基づく進言は大いに役立ち、信玄を補佐していくこととなる。
浪人であった山本勘助を信玄に推薦したことでも知られる。
天文17年(1548年)2月、村上義清との上田原の合戦で、緒戦では勝利していたものの体勢を立て直した村上軍に急襲され戦死する。


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弓矢巧者の武将:横田高松



弓矢巧者の武将:横田高松

横田高松(よこた たかとし)は近江国甲賀郡横田郷出身で、佐々木源氏の一流であり元は六角氏の家臣であったとされ、備中守を称す。
武田家への仕官は武田信虎の時代とされる。
信虎が信玄より駿河国へ追放されて以降は信玄に忠実な家臣として登用され、主に信濃攻略に全力を傾ける。
高松は甲賀者を用いて情報を収集し状況分析能力に優れ、またその武勇は特に弓の名手として戦略、武功に大きく貢献した。
武田信虎、信玄より生涯で34枚の感状を貰うほどの武功は内外で広く知れ渡り、その手傷は31箇所にものぼったという。
武田家『職』である甘利虎泰の部隊の相備えを務め、足軽隊将としても冷静沈着に戦況を眺め的確に兵を動かし数々の修羅場で活躍した。
天文17年(1548年)、『上田原合戦』において、武田軍は村上義清の前に惨敗を喫し、それまで武田家のなかでも家臣団の柱的存在であった板垣信方・甘利虎泰の『両職』失う。
劣勢を挽回すべく信玄は信濃へ出陣、村上義清の本城・葛尾城攻略への第一歩として、その有力な支城であり北信濃への重要拠点である戸石城の攻略に取りかかる。
堅固な守備勢に固められた戸石城の攻略は困難を極め、武田軍が疲労し撤退を開始したところ村上勢により急襲されてしまう。
高松は混乱状態に陥った武田軍の殿軍を務め、武田軍の大部分が退却に成功するまで踏み止まり壮絶な戦死を以って武田家の窮地を救う。
信玄は高松の死を痛く嘆き、
『優れた武将を目指すのであれば、原美濃守(虎胤)や横田備中守(高松)を見習え』
と家臣に言って聞かせた。


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