
智略の武将:内藤昌豊
武田家の四名臣の一角。
もともと昌豊は、戦闘部隊を率いて槍先の功名に狂奔するといった剛将ではなかった。どちらかといえば、戦国時代には珍しい思慮ぶかい温厚な人柄であった。
信玄は武田騎馬軍団を率いて戦国希代の戦略家であり、戦上手であったが、一方で民政にも長じ、人間管理の妙手でもあった。
このような信玄にとっては智略をもって戦を進める昌豊の資質に着目して重臣しとて登用した。
第四回川中島合戦では、妻女山攻撃隊しとて出撃し一足遅れて八幡原の激戦に参加、上杉勢を相手に激戦を演じた。
箕輪城攻略に際しては同じく四名臣のひとり山県昌景とともに先陣を勤め、一夜にして城を落す活躍をしたのち、箕輪城代に任ぜられた。
同じ宿将の馬場信春や山県昌景、高坂弾正ら信玄の『四名臣』はいずれも信玄がその才能を見出して登用した武将である。
『甲陽軍鑑』によると、信玄はまず軍議に四人を呼び寄せ
■馬場信春は戦いの方法を進言する。
■山県昌景は出陣の時期を進言する。
■内藤昌豊はどちらへ出陣すべきかをお指図申し上げる。
■高坂昌信は敵国への交渉と、戦さの延期の判断を進言する。
とある。
信玄は四名臣のそれぞれの意見を聞き、総合的な判断を以って幾度もの戦に望んだ。
信玄の亡き後、勝頼が率いる長篠の戦において怒涛のように押し寄せてくる敵軍のなか退却する勝頼を見送った後、織田・徳川軍の銃火へ向けて突撃しつつ最期を迎えた。
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