
信玄流の継承者:徳川家康
三河の松平広忠の嫡男として、岡崎城で生まれる。
幼少時代は駿河の今川義元のもとで人質として過ごす。
今川義元が上洛作戦を決断し西へと向かう際も今川軍の先陣役として従軍していた。
途中、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、総崩れする今川勢とは距離を置き、故郷である三河の岡崎城に入り、ここで今川氏から独立を果たす。
独立後も織田勢と小競り合いを繰り返していたが、今川氏真とは断絶して一転、尾張・織田信長と同盟を結ぶ。
武田信玄が駿河・今川攻めを開始する頃は武田・徳川も手を結び、家康は今川領の遠江国の大半を攻略し、足元を固めるとともに浜松城の築城にも着手している。
元亀3年(1572年)武田信玄は遂に上洛に向けて軍をおこすと、一言坂の戦いで信玄の巧みな戦略に翻弄され家康はあっけなく浜松城まで逃げ帰る。
その後も遠江の要衝であった二俣城が陥落するなど徳川軍の劣勢は否めない。
浜松城での篭城作戦を取っていたが武田信玄は浜松城を無視して素通りして三河へ侵攻する気配を見せる。
プライドと面子をかけて家康は家臣団が篭城作戦の続行を進言するのも振り切って出陣する。
かくして三方ヶ原の戦い(現在の静岡県浜松市)で徳川・織田連合軍は武田信玄の戦略の前で大敗を喫し、家康自身も馬上で脱糞するほどの恐怖を味わい命カラガラ浜松城に逃げ帰る。
家康の凄いところはこの敗戦を自らの教訓として忘れないために、苦渋に満ちた表情を肖像画として残し、以後の戒めとして身近に置いたという点である。
なかなか自分の失敗を認めることは勇気がないとできないことである。
しかし武田信玄も上洛作戦の途中病に倒れ、甲斐へと軍勢を引き戻している。
信玄なきあとの武田と徳川の力関係は一転し、織田・徳川勢の勢いはいよいよ増していき、武田家を滅ぼすとともに天下統一へ向けて突き進んでいく。
本能寺の変で織田信長が倒れると、今度は豊臣秀吉が台頭してくる。
秀吉なき後も豊臣秀頼・秀吉の遺臣達と徳川勢との間で関ヶ原の戦いが勃発する。
この戦いを様々な戦略・策略を以って制した徳川家康は、長きに渡る戦国レースを終結させて天下を統一、征夷大将軍へと階段を登っていく。
家康の兵法や内政の手法や考え方については、その多くを武田信玄を手本としていたといわれる。
武田家は結局滅んでしまったが、その甲州流の血筋は脈々と徳川家康のなかで継承されていく。
江戸時代になってからも甲斐は藩制をとらず徳川幕府の直轄領となったこともそんなことが影響しているのかもしれない。
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時代の先駆者:織田信長
もはやこの人物については詳しい説明は要らないほどに有名な武将である。
武田信玄を現代で言うなれば、企業組織に人材を適材適所に配置し、その意見を集約して企業方針を決定、その方針に従って邁進するオーソドックスなタイプの社長であろう。
一方、織田信長はすべてにおいてトップダウンで物事を即断・即決、斬新なアイデアで局面を乗り切っていくベンチャー企業の一匹狼タイプの社長であると言えよう。
尾張守護代・織田信秀の長男として生まれた織田信長は、父の死後家督を18歳で相続した。
1560年の桶狭間の戦いにおいて攻め寄る今川義元の大軍を奇襲戦法により撃破して,天下に勇名を馳せた。
次第に勢力を拡大していくなか、将軍・足利義昭と対立し、武田・浅井・朝倉・三好・比叡山・本願寺・毛利などの信長包囲網にも果敢に対抗していく。
武田信玄との直接対決は実現しなかったものの、信玄亡き後の武田家とは後継者・武田勝頼を長篠の戦いにおいて相まみえている。
信長は3000丁の鉄砲と防護柵で武田騎馬軍団を撃破し、武田家を滅亡へと追い込んでいる。
天下統一を目前にしながら1582年6月に『本能寺の変』が勃発する。
自軍のなかでも優秀な武将・明智光秀の謀反により、明智軍の襲撃を受け進退極まり自ら本能寺に火を放つ。
結局その焼け跡の中からは死体は発見されていない。
時代の先駆者とも言えるほどに色々なアイデアを具現化し、その先見性は他を圧倒することは誰もが認める事実であろう。
楽市楽座を奨励し堺を一大商業都市としたり、兵農分離で軍隊の傭兵化を推し進めたり、いち早く鉄砲部隊による戦術方法の確立などはその一例に過ぎない。
その天才的才能の保有者が故に、家臣団の不平不満に気づかなかったのであろうか・・・
家臣団への思いやり(仁義)がもう少しあったならば、間違いなく自ら天下を手中に治めたであろう。
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唯一の敗戦相手:村上義清
村上義清はその勇猛で知られた信濃の葛尾城主であった。
武田信玄の生涯の戦歴の中で、一度ならず二度までも敗戦と言える経験させた武将である。
信玄が経験した一度目の敗戦は『上田原の戦い』であり、初鹿野伝右衛門、板垣信方、甘利虎泰などの武田家 家臣団でも中心的な武将をことごとく討ち取られた。
二度目の敗戦は『砥石城の戦い』であり、ここでも武田家 家臣の横田備中守高松を失っている。俗に言う『砥石崩れ』である。
このふたつの戦いで村上義清に敗戦を喫した武田信玄はこの後力攻めでの村上勢の攻略を断念し、真田幸隆による調略による切り崩しで村上家家臣団の取込みを開始する。
この結果村上家 家臣団は内部から崩壊し、砥石城は武田信玄の手中となり、村上義清は越後の上杉謙信を頼って越後に落ち延びることとなる。
旧領の奪還を期する村上義清は上杉家の後押しを受け、ここに武田信玄と上杉謙信との川中島における戦いが勃発することとなる。
その後、上杉家臣となった村上勢は、1561年の第4回川中島の戦いにおいて信玄と再び対戦し、信玄の弟である武田信繁を討ち取る。
やはり人間としてどうしても相性の合わない者というものは存在するもので、信玄にとってこの村上義清とはまさにこれに該当するのであろう。
また敗戦から学ぶという点ではこれ以上にない教訓を残してくれた対戦相手でもあり、信玄の戦い方は以降『決して負けない』準備と戦略により推進されていくこととなる。
そういった意味でも村上義清は武名高き戦国武将のひとりである。
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小田原城主:北条氏康
戦国大名としての北条家の始まりは『戦国時代の先駆者』といわれる『北条早雲』から始まる。
早雲の子である北条氏綱の時代に関東に進出し、氏綱の子・北条氏康に受け継がれ、相模の雄として関東一帯を支配することとなる。
1545年の『河越の戦い』において山内上杉勢・今川勢などの連合軍・8万の軍勢を相手に10分の1のわずか8千の兵で対抗し、これを退けたことで北条家の武名を知らしめる。
どちらかというと武勇の面よりも政治家として非常に優秀な足跡を残している。
他に先駆け『検地』を実施して税収を集める手法を取り入れるなど、経済改革を実行している。
北条家の居城といえば越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄など名立たる武将が攻めあぐねた『難攻不落の小田原城』である。
現存する小田原城郭もかなり広大なものであるが、当時はそれよりも更に大規模で堅固な城郭であった。
小田原城の存在により幾多の強敵を退けてきた北条家は1571年に氏康が病により没した後、氏政・氏直と代をかえていく。
その頃になると日本をほぼ制圧した豊臣秀吉に対して和平派と主戦派とで意見が別れ、家臣団の会議でも結論がなかなか出てこない。
俗に時間ばかりが過ぎてなかなか結論がでない会議のことを『小田原評定』と呼ぶのはこのことに由来するという。
もはや、日本をほぼ手中にしている豊臣秀吉と北条家では歴然とした力の差があり、難攻不落の小田原城を以ってしても持ち堪えることはできなかった。
結局北条家は降伏して敗北、北条氏政は切腹、北条氏直は流刑となり相模の北条家は実質的に滅亡となる。
歴史上ではやはり北条氏康の統治していた頃が相模・北条家の絶頂の時代であったと言えるであろう。
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海道一の弓取り:今川義元
現在は公園となっている善得寺において駿河の今川義元、相模の北条氏康、甲斐の武田信玄の三者会談が行われ、婚姻政策による三国同盟が成立した。
この三国同盟はお互いに協力して他国を攻めるといった性質のものではなく、いわばお互いの不可侵を約束するものであった。
これにより甲斐の武田信玄は信濃・越後へと、相模の北条氏康は北関東・房総へと、駿河の今川義元は尾張へとそれぞれの思惑に専念することができるようになった。
尾張の織田信秀の死を受けて、動揺する織田家に対して制圧作戦を開始、そのままの勢いで京の都まで上洛するべく義元はいよいよ大軍を率いて挙兵した。
時は1560年、尾張では信秀の後を継いだばかりの織田信長は、義元の西上作戦を聞きつけ僅かばかりの手勢で城を駆け出た。
信長は田楽狭間(現在の豊明市)で休息中している義元の本陣へと降っている雨に乗じて電光石火の襲撃で突撃し、義元を討ち取る。
『桶狭間の戦い』と呼ばれるこの戦いで主君を失った今川家は衰退への路をたどり、一方勝利した織田信長はそのままの勢いで戦国の覇者への階段を駆け上っていく。
義元の死によりそれまで松平家帰順の人質とされていた徳川家康も三河で独立し、戦国大名として着々と地力を養っていく。
公家文化に精通し、大きな武名が残されている訳でもなく、劇的な最後を遂げた義元であるが、決して凡庸な武将であったわけではない。
駿河・遠江・三河の三国の膨大な領地
(東名高速道路を走ればお分かり頂けるかと思うが、三島・沼津から静岡県に突入すると、富士、清水、静岡、浜松と延々と続く領地である)
を治めていたその能力は、やはり一角の武将としての資質、統治力がなければ務まらない。
『海道一の弓取り』という称号・・・ まさに言い得て妙である。
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越後の飛龍:上杉謙信
上杉謙信は長尾為景の子として越後の春日山城に生まれた。
もともと乱暴な素行が目立っていたため、7歳の時に父・為景の指示により林泉寺の天室和尚に預けられた。
和尚は連れて来られた虎千代(謙信)を一目見るなり、その秀でた天性を認め、ただの出家僧として末遂げる人物ではないと将来を有望視した。
同年、父・為景は他界してしまうが、これを転機にそれまでの乱暴者は影を潜め、天室和尚の指導のもと学問、書道に没頭し、後に天下の英雄と呼ばれる謙信の基礎が築かれていく。
戦国武将として特筆すべきは、軍事面での天才的センスであり、戦闘の神様である毘沙門天の化身と恐れられた。
謙信自らも毘沙門天の生まれ変わりと称し『毘』を旗印としている。
謙信は幼少期を仏門で過ごしたため、信仰にも厚く義を重んじる性格の持ち主としても有名であり、生涯妻を娶らず実子孫を残していない。
私利私欲とは無縁の人物であり、愚直なまでにも大儀名分にこだわるその性格ゆえ、天下を治める者に成り得る能力に恵まれながらも関東管領にこだわり続け、上洛は果たせなかった面も伺える。
ただひとたび戦闘となれば、その強烈なカリスマ性により人心を掌握して軍勢を指揮し、戦国時代における希代の名将と言われる。
永遠のライバルである武田信玄とは川中島の戦いに代表される数々の場面で対峙し、お互いにしのぎを削る名勝負を展開する。
お互いに敵対していた武田信玄と上杉謙信であるが、お互いに好敵手としてその力量を認めていた。
信玄は後継者である武田勝頼に自分の死後は上杉謙信を頼るよう指示したとも言われる。
身内でも骨肉の争いが絶えなかった戦国時代において、常に正義感溢れる謙信の姿は、現在でも尚多くの人たちの心を捕らえて離さない魅力的な武将のひとりである。
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