出自は武田信玄の傅役を務めた金丸虎義の二男である。
特出する武功としては元亀3年の三方ヶ原の合戦において徳川勢の中でも名を知られた剛将・鳥居信之と激しい一騎討ちを演じており、結果その首級をあげている。
信玄が上洛途上の駒場で亡くなったおりに殉死を願い出た。
しかし重臣の高坂昌信に説得され武田勝頼に忠臣を誓ったという。
長篠の戦いでは、敵の三重柵の二重まで突破したところで鉄砲隊の一斉集中射撃を受け落命した。
剛将として知られる反面、竜朱印奏者でもあり行政官としての活躍も目覚しいものがある。
武田家滅亡の天目山の戦い『片手千人斬り』で名を残した土屋昌恒の実兄にあたる。
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行政官僚として直轄領の石森や塩後などの現在の東山梨郡一帯で代官を務め手腕を発揮した武田二十四将のひとり。
はじめ武田信玄の奥近習として仕えていたが、信玄にその才能を認められて侍大将に出世する。
武田家重臣の山県昌景にも気に入られ、その娘婿となる。
信玄の駿河侵攻の折には花沢城攻略で一番槍の武功を立てたことにより武勇を知らしめ、山県昌景から名刀『吉光』を与えられ、山県姓を与えられる。
1575年の長篠の戦いでは鳶ノ巣山の砦を守備していたが、織田勢の酒井忠次率いる別働隊の襲撃を受けて戦死した。
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武田信虎の九男であり、武田信玄の異母弟。
甲斐源氏の名家一条家の名跡を継いでいる。
武田家家臣の親類衆として兄・信玄、甥の武田勝頼の2代に仕える。
合戦では主に本陣後衛を担当していた。
駿河国侵攻では田中城代、駿府城代を務める。
天正3年(1575年)の長篠の戦いに参戦して生き延びるが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡時に徳川家康の軍と戦って討死にした。
合戦の度に馬鞍、武具、具足などの諸道具を新しく整えたり、諸国の浪人に常に眼を配り優秀な武士を召抱えるなどして周りから『伊達者』と呼ばれた。
このことは甲陽軍鑑の中で山県昌景の言葉として『一条殿は馬鞍武具等これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている。』と残されている。
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信州先方衆:真田信綱
信濃の真田幸隆の長男として生まれ武田信玄、武田勝頼の二代に仕える。
父・真田幸隆とともに武田信玄に臣従し武田家家臣として仕える。
永禄4年(1561年)の第四回川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっている。
父である幸隆や弟の昌幸に比べると史実上は目立った功績の記録は少ないが、武田二十四将に数えられる逸材であり、どちらかというと寡黙であるが実行力を伴い、周りからの信任が厚い武将である。
信州先方衆として200騎を率い、常に最前線での先鋒として活躍する。
天正2年(1574年)に幸隆が死去すると真田の家督を継いでいる。
家督を継いだ後は真田勢を率いて長篠の戦いで奮戦するも、弟である真田昌輝と共に戦死する。
真田家は以後真田昌幸へと受継がれていく。
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夜襲のスペシャリスト:多田満頼
武田信虎、武田信玄の二代に仕え淡路守を称す。
もともとは美濃国の浪人で、武田信虎の時代に甲斐に入り足軽大将として登用される。
その猛勇豪傑を伝える逸話として『火車』と呼ばれた鬼を退治したという話が語り継がれている。
主に信濃虚空蔵山城の守衛にあたっていた。
特に隠密行動による夜襲を得意としており、与えられた兵士の数は少なかったがこの分野で右にでるものはなかった。
武田信虎は追放先となった駿河において、今川家臣に武田家の武将の話をする折には多田満頼の名前を挙げてその豪胆さを自慢したという。
武田信玄の代となる頃には既に老齢に達していたが、信玄からの信任も厚かった。
第4回川中島の戦いの折には病床に伏せており参戦できなかったが、息子が替わりに参戦している。
生涯で29度の感状を拝領し、負った手傷は27ヶ所にものぼったという。
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鬼虎の長男:小幡昌盛
小幡昌盛は前回ご紹介した鬼虎:小幡虎盛の長男である。
昌盛は武田信玄、武田勝頼の二代に仕え、父子ともに武田二十四将に数えられる猛者である。
1554年(天文23年)の北条氏康との富士大宮戦や1561年(永禄4年)の第四回川中島の戦いでも戦功を上げるほどに、父の勝るとも劣らぬ武勇を誇る。
武田信玄に『鬼の子には鬼の娘が相応しい』とまで言わせる程であり、鬼美濃こと原虎胤の娘を妻に迎えている。
父・虎盛が亡くなった後は父を継いで海津城副将の地位にと推薦されている。
しかし昌盛は旗本になることを強く希望し、この誘いを断っている。
あくまでも旗本を目指す昌盛は足軽大将としての地位に留まり、騎馬3騎・足軽10人を預かり17回の合戦で17の功名を上げている。
信玄亡き後は勝頼に仕えることとなる。
長篠の戦いの折には病床に伏しており参戦はしていない。
結局のところ父・虎盛と同様に床に伏したまま病死という結末を迎えてしてしまうが、亡くなったのは勝頼自刃の5日前であった。
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鬼虎と呼ばれた男:小幡虎盛
小幡虎盛は武田信虎、武田信玄の2代渡り武田家臣としてに仕える。
元来は遠江の出身で、父親が武田信虎に仕官したのに伴い甲斐武田家臣団となる。
信虎時代は足軽大将として甲斐国内の統一へ向けた戦いや今川、北条との戦いで武勇を馳せる。
その功績が信虎に認められ、『虎』の一字を貰い受け虎盛と名乗る。
その凄まじいまでの武者振りは『鬼虎』と呼ばれ多くの武将より恐れられる。
信玄の代になってからもその武名は衰えることを知らず、数々の戦いで活躍する。
その後も高坂昌信の副将となり、昌信の右腕として海津城に入り上杉勢に睨みをきかせる。
生涯で36度の功名をあげ、全身にあびた手傷は41ヶ所にものぼったという歴戦の勇将である。
1561年(永禄4年)6月に『鬼虎』も病には勝てずに病死する。
遺言として『よくみのほどをしれ』との言葉を残し、子孫たちを戒めた。
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信玄の長男:武田義信
武田信玄と正室・三条の方の長男として生まれる。
駿河・相模・甲斐の三国同盟の政略結婚として今川義元の娘を正室として迎える。
偉大な父・信玄の影に隠れ、内政面での大きな功績を残した記録はないが、1561年の第四回川中島の戦いを代表とする信濃攻略に際してはいずれも出陣しそれぞれに武功を挙げている勇敢な武将である。
父親である信玄とは弱体化する駿河・今川氏への侵略に際して意見の食い違いが表面化する。
義信は妻の気持ちを思いやり、駿河侵攻に断固反対の姿勢を見せる。
そんな義信の気持ちとは裏腹に、信玄は駿河・今川との同盟を破棄し、駿河への侵攻を決定する。
飯富虎昌と通じて謀反を計画するも、山県昌景(飯富虎昌の弟)の報告により計画が発覚し未遂に終わる。
飯富虎昌は責任を一身に引き受けて自害し義信の罪を軽減しようとしたが、結局義信は東光寺に幽閉されてしまう。
幽閉中に死亡しているが、自害とも病死とも伝えられている。
その真相は本人のみぞ知るところである。
結局この事件により武田勝頼が信玄の跡を継ぐこととなるが、勝頼と譜代の家臣団との間にギクシャクした関係が垣間見えるのはこのことが遠因とみることもできる。
武田義信も実は人望も厚く、ただ血気盛んなだけの武将ではなかったとの再評価も近年の研究により進んでいる。
もし武田義信・勝頼の二人が手をとり協力して武田家を受継いでいたならば、その屈強な家臣団とともに史実と違った武田家の結末を迎えていたのではなかろうか。
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甲斐郡内の雄:小山田信茂
甲斐国の郡内地方にある岩殿山城主で左兵衛尉出羽守を称す。
小山田氏は甲斐郡内地方を領し、都留郡の守護として名を知られた豪族である。
武田家には武田信虎の代のときに臣従するが、固有の領主権は認められていた。
小山田氏単体でも強大な勢力を保有しており、独自の勢力圏を形成していた。
岩殿山城を居城として特に対北条氏への防衛担当として守備にあたる。
信茂は信玄、勝頼の武田二代に渡り仕官し、川中島の合戦や対小田原北条氏戦などで名を馳せた。
長篠の戦い以降徐々に優勢となっていた織田軍が武田殲滅作戦のために甲斐国に迫ると、勝頼に自身の居城である岩殿山籠城を進言した。
このとき勝頼受入れについては上田城の真田昌幸も名乗りをあげていたが、結局勝頼は小山田信茂の岩殿城への入城を選択する。
ところが事態は急転、その途中で小山田信茂は保身のため主家に背き勝頼に牙を向ける。
天目山で勝頼は従う僅かの手勢の見守る中、自害して果て武田家はここに滅亡の憂き目となってしまう。
しかしこの行為は敵方・織田信長にも主家を裏切る反逆行為としてひどく侮蔑され、磔に処されてしまう。
主家を裏切った背信者としてのイメージが強く残って現在に伝えられているが、もともと甲斐国内も武田家の一枚岩だったわけでなく、武田家とは同盟関係にあった豪族との見方もある。
結果的に武田家を滅亡させてしまったという事実は否めないが、武田二十四将のひとりに数えられる武将であり、それ以前の実力や功績が色褪せることはない。
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武田信玄の甥:穴山信君
穴山信君の母は武田信玄の姉・南松院であり、更に妻は信玄の娘・見松院(見性院)という武田家とは深い姻戚関係を持ち信玄の甥にあたる。
本人にも武田家の血筋が色濃く(4分の3)流れており、他の武将と比較しても武田家一門衆として重きをなす。
後に入道して梅雪斎と称す。
主に鉄砲隊を率いて戦場に望み、川中島・三方ヶ原・長篠など戦いで本陣の守備部隊として従軍する。
武田信玄の没落後は後継者・勝頼の親類衆の筆頭として登用され、武田家臣団のなかでもその発言力・影響力は強いものがあった。
長篠の合戦で戦死した山県昌景の後任として江尻城主となると、東海地方における防衛に傾注する。
甲斐と江尻城の間に伝馬を設けて輸送・通信網を整備したり、城下町の造形にあたるなど、内政面での改革に着手している。
武田勝頼が甲斐・韮崎に新府城を築城したこともこの信君の進言によるものである。
しかしここで転機が訪れる。
次第に勢いを増す織田信長の武田殲滅作戦を目の当たりにして、武田家に見切りをつけてしまったのか? 徳川家康を通じ、織田方に降り寝返ってしまう。このとき旧領は安堵されている。
一説にはもともと武田勝頼と折り合いが悪かったともいわれるが、いずれにせよ一門衆の穴山信君の裏切りにより武田家滅亡はその勢いを加速していく。
家康とともに信長に謁見するために和泉国の堺に滞在していたところ、明智光秀による本能寺の変が勃発、信長も討たれてしまう。
これを知った信君は急ぎ伊賀越えで帰国しようとしたが、その途中で一揆に遭遇し土民に襲われ落命する。
後世に自家を存続させるためには主家への裏切りも常であった戦国時代・・・
その所業を責めることはできないが、悲しい結末である。
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岩村城代:秋山信友
武田信玄、武田勝頼の二代に仕えた武田家臣団のひとりで伯耆守と称す。
信玄の信濃国攻略に際して特に伊那地区の攻略で戦功を挙げ上伊那郡代に登用されている。
以後も各地を転戦し、高遠城、飯田城などの信濃方面の主要地域での防衛面を主にを任される。
武田家臣団のなかでは武勇面に秀でる武将のひとりであるが、それだけではなく信玄の娘・松姫と織田信長の嫡男・織田信忠との婚約成立の歳には信玄の全権を任された名代として岐阜へ赴いている。
織田信長もこの婚儀成立には慶びを前面に表し、信友を長良川の鵜飼でもてなしている。
飯田城代に就任してからは他国との国境警備と共に美濃国攻略を担当している。
そんな中で遠山景任の守っていた岩村城の攻略へ向かう。
この岩村城は無血開城させるが、その折には遠山景任の正室である信長の叔母を妻に迎えることを約束し、実現している。
その後はこの岩村城の城代を任命される。
信玄死去後も勝頼を補佐して美濃出兵を援護したが、天正3年(1575年)長篠の戦いで武田軍が大敗すると岩村城は孤立してしまう。
再三再四、織田信忠の軍の猛攻を受けるがこれをかわしつつ、良く持ちこたえていた。
しかしついに織田信長が自ら本隊を率いて岩村城を包囲する。
本国より援軍の見込みがなかった信友は城兵の保身を約束に開城を決意し実行する。
しかし信長にはこの約束を果たす気は毛頭なく、秋山信友と信長の叔母である妻を長良川で磔刑にしてしまう。
もちろん城兵もひとり残らず討ち取られてしまっている。
一度は鵜飼で接待された長良川で奇しくも同じ場所で磔となってしまうとは・・・
運命とは時に予想もしない結末を迎えるものである。
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信玄の影武者(実弟):武田信廉
甲斐武田信虎の四男であり信玄の弟。後に出家して武田逍遙軒(しょうようけん)と称す。
第4回川中島の戦いで兄の信繁が戦死した後、親族筆頭となり主君・信玄と家臣団とのパイプ役として武田家を支える。
主に後方守備や本陣守護などの役割を務める機会が多かった。
武田信玄と信廉は兄弟だけに容貌・雰囲気が似ており、影武者を務めたともいわれる。
徳川家康との三方ヶ原の戦いの後、信玄が京の都への上洛作戦途上の夢なかばにして信濃の駒場で病死した際にも、信玄の死を内外に悟られぬようにと影武者役を勤めた。
信玄の死後は深志城代や高遠城主などを歴任しながら後継ぎである武田勝頼を重臣として立場で貢献する。
尾張の織田信長の甲斐・武田家への侵攻が開始されると一度は甲斐・古府中に戻り体制を立て直そうとするが、捕らえられ斬首されてしまう。
画家としての才能にも恵まれた武将で、父・武田信虎や母・大井夫人の肖像画なども現存している。
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仁義の猛将:原虎胤
初め下総の千葉氏家臣であったが国を追われのち武田家の家臣となる。
武田信虎、武田信玄の二代に渡り仕官し美濃守を称す。
大永元年(1521年)の甲斐飯田河原戦では今川勢の北条綱成の父である福島正成を討ち取るという功績を挙げるなど、信虎時代の若手武将として活躍する。
信玄の代となる頃には既に家臣団でも老臣といえる地位に就いており、信玄からも大いに頼られる武将であった。
猛将としての武勇は鬼美濃、夜叉美濃と評されて敵国の武将より恐れられるほどであったが、その一方で攻城戦の名手でもあった。
虎胤が攻め落とした城は、補修が最低限で済みそのまま自国の城として活用できるほどであった。
ただの猛将というだけではなく仁義にも篤く、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届け、『元気な姿で再び戦場で相まみえよう』と労ったという逸話も残っている。
永禄4年(1561年)信濃国割ヶ巌城の戦いで負傷し、その傷が癒えぬまま第4回の川中島の戦いを迎えるがここでは参戦しないままに終わってしまう。
その後は第一線より退き68歳で亡くなるが、虎胤が称した美濃守をその武勇にあやかるために馬場信春が引き継いでいくこととなる。
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両職のひとり:甘利虎泰
板垣信方らとともに武田信虎・信玄の二代に渡り重臣として従事した武将で、家臣団のなかでも中心的人物。
信虎が治めていた時代から敵方より勇将としてその武勇は恐れられ、甲斐の国内を平定する際には大きな戦功をあげた。
天文10年(1541年)には板垣信方、飯富虎昌などと一緒に暴君信虎を駿河に追放するため信玄を支持して『無血クーデター』を実現する。
信玄の代となってからは、板垣信方とともに『両職』と呼ばれる家臣団の中でも絶対的な発言力をもつ立場として、若い信玄を大いに支えた。
天文17年2月14日(1548年)の上田原の戦いにおいて、村上勢が板垣信方を討ち取ると、更に進撃してくる村上軍から信玄を守るため孤軍奮闘しながら戦死を遂げる。
この戦いで板垣信方・甘利虎泰を失った信玄であったが、この二人の死は若さにまかせた信玄の血気に逸る戦略をたしなめる意味合いもあったとの見方もある。
いずれにせよ二人の宿老亡き後の家臣団は一気に若返りを果たし、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信といった『武田の四名臣』が台頭してくることとなる。
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信玄の教育指南役:板垣信方
武田信虎・信玄の二代に亘って仕えた武田家の重鎮的存在の宿将であり、駿河守を称す。
少年時代の信玄に対して教育指南役である傅役を務め、育ての親とも言える存在であり、戦国武将・武田信玄の基礎を創りあげる。
甘利虎泰とともに両職として武田軍の指揮を取り、信濃の制圧においては戦闘面ではもちろん、領国の政治面でも尽力する。
天文10年(1541年)に信玄が父である信虎を追放した際、信玄をバックアップした中心的人物で、信虎を今川家へと送り届ける役目を果たし、無血クーデターを実現・成功させる原動力となった。
原虎胤・甘利虎泰・横田高松などの武将と共に、若き信玄の創業初期においてはその豊富な経験に基づく進言は大いに役立ち、信玄を補佐していくこととなる。
浪人であった山本勘助を信玄に推薦したことでも知られる。
天文17年(1548年)2月、村上義清との上田原の合戦で、緒戦では勝利していたものの体勢を立て直した村上軍に急襲され戦死する。
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